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筑前琵琶 橘流 日本橘会
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筑前琵琶の伝統と歴史
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筑前琵琶の起源
その1 その2 その3

橘玄清法印その3

最澄は玄清の功労を深く感謝し、天台宗の名称を允許し、「成就院」の院号を与え、また奏上して法眼、さらには朝廷より法印の位を授けられました。現在、院号を称しているのは、この時に由来しています。

やがて、玄清は比叡山を下りて筑前に帰り、もとの四王寺山に草庵を結び、允許された成就院を称しました。その後も各地での干ばつや疫病流行の際に玄清は勅命を受け、法弟を従えて上洛、叡山の中堂にて厳かなる修法により万民の苦患を救ったと言われています。



   青蓮院よりの御船印と令旨

そして弘仁十四年(823)、橘玄清は天寿五八歳で入滅しました。

玄清の没後も代々の院号を授与された法孫は上洛し、比叡山にて御修法を行っていましたが、時は下って安永十年(1781)、橘玄清法印より第三十世にあたる橘真定(しんじょう)は、京都粟田口の天台宗 青蓮院門跡(別称、粟田御所と言われ、代々の門主が皇室。天台宗三門跡の1つ)より官位、法衣、そして法正山福院の院号を授与されます。

この様に天台仏説宗開祖 橘玄清法印の系譜は正統に継承され、橘玄清より第三十五世にあたる筑前琵琶の祖、橘旭翁を経て、今日に至っています。



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