そして弘仁十四年(823)、橘玄清は天寿五八歳で入滅しました。
玄清の没後も代々の院号を授与された法孫は上洛し、比叡山にて御修法を行っていましたが、時は下って安永十年(1781)、橘玄清法印より第三十世にあたる橘真定(しんじょう)は、京都粟田口の天台宗
青蓮院門跡(別称、粟田御所と言われ、代々の門主が皇室。天台宗三門跡の1つ)より官位、法衣、そして法正山福院の院号を授与されます。
この様に天台仏説宗開祖 橘玄清法印の系譜は正統に継承され、橘玄清より第三十五世にあたる筑前琵琶の祖、橘旭翁を経て、今日に至っています。
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